西国街道チャリぶら その2 -羅城門あたり-

OLYMPUS DIGITAL CAMERA平安京を南北に貫いた目抜き通り、朱雀大路の道幅は、なんと85メートルもあったという。今の堀川通りの道幅が約50メートルだから、その広さに口がアングリである。かのシャンゼリゼ通りも真っ青だろう。道と言うよりは、広場が延々と続いていたようなものだ。どうも都市の規模に対して道幅が広すぎたものだから、管理がおぼつかなかったらしい。この幻の大通りの位置は、今の千本通りあたりである。

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終い弘法2014

師走。『アナと雪の女王』じゃないが、とんでもない寒波がやってきて、街中が凍りついた12月中旬だったが、年の瀬も押迫った今週になって少し寒さは和らいだ。それでも京都盆地の冬は寒いことは寒い。
「きっとこの冬の寒さは厳しい」
気象予報でも、巷でも、おやじの酒の席でも、そんなフレコミだったが、12月を見る限り、ゲバ評の通りの冬である。

IMGP1466 (800x530)ほとんどオタズネ者だった冬の太陽が現れた日曜日の事。自称 風水師の家人を連れて東寺の『終い弘法』に行った。とりたてて買い物があるわけでもなく、散歩がてら、京都の年末の空気を吸おう、というのが動機である。

 

 

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二月の弘法と春の予感

春を思わせる陽気だった。空を見れば快晴で、青空というのをしばらくぶりに見た。まったくこんな日に限って仕事が立て込んで、朝からくだらない書類と取っ組んでいた。
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PENTAX K10D & DA40mm f2.8Limited(パンケーキ)
とっくにおやつの時間を過ぎた頃、車で九条通りを通ると、東寺付近の人集りを見て気付いた。今日は”弘法さん”の日だった。
もう陽は傾いてた。露店商の片づけが始まった境内を少しホッツキ歩いた。鯛焼き屋のお姉ちゃんが可愛かったので、売れ残りを一つ買った。100円也。
近年稀に見る寒い二月だったので、自転車に乗りたいような、乗りたくないような、そんな感じだった。でも今日は、お尻がムズムズした。気がソワソワした。鯛焼き食いながら春の予感にときめくオヤジ心だった。

東寺初弘法

21日は初弘法の日だった。東寺の境内に千を超える露店が並ぶ。客層はやはり年配者が多い。売る側も同じか。「弘法さん」はおっさんおばはんの祭典だ。
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骨董品かガラクタか、僕には判別不能であったが、面白そうな品が所狭しと陳列されていた。陶器、古物、履物、着物、たこ焼き、りんご飴、うどん、丼、コーヒーショップまであった。「弘法さん」恐るべし。
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一万円札を透かしている姿が見えた。お正月から各地の露店で偽札が多く発見されているため、商人たちは警戒していた事だろう。
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東寺と一揆

京都の東寺(教王護国寺)の前を通る度に思い出す事がある。
「鳥羽・吉祥院の百姓達が東寺を目指してたびたび攻め入った」中学校の歴史の授業で聞いた「一揆」の話だ。鳥羽・吉祥院はクラスみんなの地元だ。当然クラスに農家の子供がいたものだから
「お前の先祖は東寺目指して一揆したんだな」
「・・そうだな」
農家の子は返事に元気がない。
そんなやり取りを憶えている。余程話が面白かったのか、それ以来僕の頭は「東寺」といえば「一揆」になってしまった。
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ネットで検索して見るといろいろ出てきた。ちょと引用してみる。
「正長の土一揆のあと14年を経て1441年(嘉吉1)にまた京都に大規模な土一揆が起こった。正長のそれとともに代表的なものとされている。(中略)
9月に入るとその勢いはますます大きくなり,鳥羽吉祥院以下中道より東の一揆は東寺にこもってその数2?3,000人。」
(中村吉治『土一揆研究』1974より)
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冒頭の「正長の土一揆」は1428年の事だ。以降の15世紀と言うのは「一揆」が多かったようで「一揆の世紀」と言われている。京都や近江辺りは一揆の多発地帯で、なかでも平安京の入り口に位置する「東寺」は襲撃の標的だったのだ。京のシンボル「五重塔」は4度焼かれている。鳥羽・吉祥院の蜂起した農民は、北の空に目をやった。見えたのは、高くそびえる権力の象徴「五重塔」だったに違いない。