ボヘミアン・ラプソディ

映画「ボヘミアン・ラプソディ」を観終わった時、私は泣いていた。悲しいからではなく、ラストのライブシーンを観て、気持ちが高揚して涙腺が崩壊したのだ。歳のせいで涙腺が弱っているにしても、ポロポロ止まらない。昭和オヤジの心を揺さぶった映画「ボヘミアン・ラプソディ」について少し雑感を述べたい。

在日コリアンにとって祖国とは微妙なものである。韓国では半分日本人のように見られ、差別的な扱いを受ける。というのは、よく聞かれる話だ。とどのつまり、日本人でもない、韓国人でもない、中途半端な存在なのだ。「ボヘミアン」という言葉には、ボヘミア地方(チェコの西部)の人いう意味もあるが、祖国の無い人、放浪する人、という意味があって、後者の意味で使われるのが大方である。行き場のない無国籍人。そういった意味では、在日コリアンとボヘミアンは符合する。

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遠ざかる昭和と55歳の話

平成最後の年末である。比較的穏やかな歳の瀬だなと油断していたら、今年もあと数日となった週末、寒波がやって来た。夕暮れ時、灰色の空からは、白いモノがパラパラと舞い落ちて、あたりは冷蔵庫のように冷えている。この一年、いったい何があって何をしたのか、いまいち記憶も怪しいが、思いのままに、つれづれに、適当でいい加減な雑感を述べたい。

半世紀をとっくに生きてしまったオヤジである。55歳である。スマホの文字は霞むし、腰に爆弾も抱えている。秋の健康診断では、血中コレステロールが多いから、何とかしなさいと、有難い忠告を頂いた。頑張って身体に良い事に励むとしよう。昭和、平成、まだ見ぬ新年号と、どうやら三つの時代を生きる事になりそうだ。

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秋桜と花ざかり

雲ひとつ無い青空が現れた。大陸性の高気圧が乾いた風を吹かせて、太陽は柔らかい陽射しを注いでいる。実りの頭を垂れていた稲は刈り取られ、柿畑のソレは順調に色を変えつつある。

大原野は秋本番である。朝夕の冷え込みが心地良い今時が、自転車放浪が命綱のオヤジにとっての絶好期である。

西山連峰の麓。高速道路を見渡す丘陵地。農道の脇に秋桜が群生していた。毎年咲く場所だ。青空に薄いピンクが映えている。

およそパソコンで、「こすもす」と入力しても「秋桜」とは変換してくれない。秋桜は本来、”あきざくら”と読む。秋桜(コスモス)を定着させたのは、山口百恵が歌ったあの歌である。

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板門店宣言と珍島物語



軍事境界線の上で、文在寅大統領と金正恩委員長はにこやかに握手をした。分断の長い歴史を思えば大変な出来事である。世界の耳目を集めた南北首脳会談について、またまた無責任な雑感を述べる。

「海が割れるのよ 道ができるのよ」

と歌い出すのは、天童よしみのヒット曲「珍島物語」である。珍島(チンド)とは朝鮮半島の南西端に位置する島である。潮の満ち引きによって、海割れが起きて、茅島里(モドリ)という島まで砂州の道が出来る。韓国では、この超常現象を霊登(ヨンドン)サリと呼んでいる。歌は生き別れた家族との再会を歌っている。でも実は、それだけではない。この歌にはもっと大きな命題が隠れている。

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スコッチ&レイン -都雅都雅にて-



四条寺町の界隈。昔は電気屋がずらりと軒を連ねていたが、今は夢の跡だ。その寺町通りの一角、雑居ビルの地階に都雅都雅がある。街にはボチボチXmasの装飾が見え出した週末、インチキ風水師こと家人を連れやって来たのは、京都の老舗のライブハウスである。

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夏も近づく狸うどん、抹茶アイスも食う -和束・信楽100キロ-



yoshiminemichi-nodo02晴天にめぐまれた5月の日曜日、家出した。駆るは、性懲りもなく、「俺もまだまだイケるんじゃないか」という50男の妄想と勘違いを見事に演出してくれるロードバイクである。この乗り物には、自動車メーカーがいくら燃費計算のインチキをやろうが、化石燃料の類はいっさい必要ない。乗り手が食ったモノ、それこそが燃料だ。巷では省エネだのエコだのと、命題のように聞かれる昨今だが、ロードバイクこそが、正真正銘、究極のエコマシーンである。

柳の新芽がまぶしい桂川。5月の日曜日ともなれば、自転車道はサイクリスト達で盛況だ。この日は有難い事に同伴者がいた。同級生のランニングサークルを率いるKさんである。どこへ行こうか、何を食べようか、などと話をしながらペダルを進めた。

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